●岩尾根を越えて展望の頂へ(牛首山-キレット分岐-赤岳)
トウヤクリンドウ [拡大]
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賽の河原からは本格的な登りとなる。シラビソなど針葉樹の混ざる樹林帯の急登を詰める。今日初めての急な登りできつい。数人とすれ違うが、至って静かな道だ。10mほど先でリスが走っているのを見る。
いくつかのザレ場や小ピークを越えて登りついたところが、三角点標のある牛首山(2330m)だった。大きな山名板が倒れている。樹林に囲まれ展望はほとんどない、静かな山だ。
2000mを超えているので少しひんやりする。山も少し高度を上げると肌寒さを感じる季節になった。ベンチに座って軽く食事をとる。
牛首山から扇山(2357m)、それからしばらくは平坦なのんびりした樹間の尾根歩きとなる。
再びリスを見る。今年は奥多摩で久しぶりに猿を見たり、北アルプスでは雷鳥を2回も見たりで、なぜか動物との出会いが多い。足元にはセリバシオガマがよく見られる。
木の枝越しに右手を見ると、県界尾根が今自分のいる位置より少し高いところに伸びている。真教寺尾根はここまで、なかなか高度を上げてくれない。
風も吹かず鳥の声もなく、またぐのにやっかいな倒木などもない。歩くことに集中できる道だがこういう道になると、頭の中では山とは関係ないほかのことを考えていることが多い。会社の仕事のことなどに何となく思いをめぐらしているうちに、いつのまにか赤岳の大きな山体が見上げる位置に来ていた。
ここまで来ると赤岳は、美し森から見えたような「遠い山」ではなく「高い山、見上げる山」に変わっている。
少し下って、いよいよ赤岳への急な登りが始まる。久しぶりに身の引き締まる思いだ。
最初は樹林帯の急登を詰めるが、すぐに開けた岩地に出る。展望が広がり、清里の高原地が広く見下ろせる。 かなたには富士山も雲間に浮かんでいる。南アルプスはもう雲の中だ。ウメバチソウの白い花が覗いている。
岩場の急斜面が続き、樹林帯~潅木帯に入りどんどん高度を上げる。ペースを乱さなければそう苦しいものではない。それでも少し登っては小休止、を繰り返す。
針葉樹林からダケカンバの林になると間もなく森林限界に出る。権現岳の険しい山頂部、天狗尾根の岩塔が澄み切った青空に突き出ている。
清里付近を見下ろす
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最後の登りで赤岳へ
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雲湧く赤岳頂上
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正午を過ぎてもまだ雲のほとんどない、この時期にしては珍しい好天だ。このままいくと赤岳到着の頃も青空かもしれない。そう思って視線を上に向けると、恐ろしく高い、険しい岩山がそこにあった。そこには山頂小屋が見えている。もう気合を入れてどんどん登るしかない。
一枚岩に付けられた長い鎖をつかんで登る。数本連続する鎖はどれも長く、50m以上ありそうだ。しかし岩面に手がかり足がかりは豊富にあり、2本目・3本目の鎖は使わずに登る。
振り返ると吸い込まれそうなので、努めて前方を見る。
久しぶりの鎖もここまで来ると慣れてきて、4本目・5本目はリズムをとって登る。ちょっとした平坦地で後ろを見るとすごい眺めだ。牛首山のピークもすいぶん低くなった。
竜頭峰下の険しい岩峰を過ぎ、長い鎖をよじ登ると、ついに主稜線に到達する。キレットからの道が合流している。扇山から2時間かかった。
あとは赤岳山頂まで10数分、比較的やさしい岩尾根を登るだけだ。ホッとして分岐付近に腰を下ろすと、さっきは気づかなかったがトウヤクリンドウがたくさん咲いている。そしてどれも花を開いている。八ヶ岳で見られるトウヤクリンドウは、花を閉じているタイプのものばかりだと思っていたので、得した気分である。
鉄梯子や岩尾根を辿って赤岳(2899m)に登りつく。青空である。阿弥陀、横岳、硫黄岳とバッと視界に入ってきて感激的だ。
宿泊の申し込みをするために、すぐに山頂小屋に入る。土日ではあるがそれほどの混み様ではなく、布団1人に1枚は確保できそうだ。「御来光2号」という大部屋に入った。
部屋に荷物を置き、外に出てみるとさすがにガスがかかり始めている。夕食後の展望を期待して部屋に戻る。
●赤く染まる西の空(赤岳頂上)
5時半の夕食が済むと、外は雲が取れ展望が広がっていた。長丁場になると思い、薄手のシャツなど4枚を着込んで外に出る。他にも続々と小屋から人が出てくる。
暮れ行く赤岳頂上 [拡大]
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横岳の稜線に西日が当たって輝いている。はるか地平線に落ち行く夕日、赤くなった雲が時間の経過とともにさらにどんどん色変わりしていく。
下界では見られない太陽と雲のドラマだ。赤岳の頂上だけが別の世界にあるような錯覚にとらわれる。
「プラス1.5補正すればきれいな色で撮れますね。」横にいた人に話しかけられる。その人の手にしているデジタル一眼の液晶画面を見ると、夕日に染まる雲を赤い色で捉えていた。
自分はフィルムなので補正値は違いますね、と答えると「フィルムとは、オタクなんですねー」と言われてしまった。今や銀塩カメラを持っている人は、秋葉原にたむろする輩と同じ部類にされてしまったようである。
デジタルはゼロか1のどちらかのデータとして記録されるから、それに補正を加えるということは、何かとても大胆なことのように思える。ゼロと1しかない世界なのだから。それに対し、フィルムはゼロから1まで全ての小数の値をとりうる気がする。
山で出会う印象的なものはそういった小数(0.5とか、0.7だとか)の部分が多い。切り捨ててしまうのはもったいなさすぎる。デジタルで記録すべきものとそうでないもの、その境界線は時代が進んでも変わらない、とオタクは考える。
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