5月にしては暑い日が続いているので、少し高い所で涼を得たい。シャクナゲが見頃ということで久しぶりに奥秩父の唐松尾山に登ることにした。
日曜の天気予報は芳しくなかったが、奥秩父稜線の原生林なら少しくらいガスったほうが雰囲気があっていい。日差しも遮られて涼しいだろう。
直前の予報では晴れの天気に修正された。
唐松尾山付近はアズマシャクナゲの群落地となっていた |
勝沼インターで下り、柳沢峠を越えて三之瀬方面の林道へ。三之瀬の登山基地となる一ノ瀬キャンプ場には、車どころか人影も見当たらない。
少しすると民宿の雨戸が開いて、おばさんが顔を出してきた。駐車料金を払うとお菓子をひとつかみ分くれた。今日は。昨日ほどの暑さにはならないだろうと言う。
歩き出すとすぐに蠶影山の石標が傍に立っていた。蠶は蚕(かいこ)の旧字体である。山梨県は江戸時代からから明治期に養蚕業が振興され、塩山駅には大きな繭市場が造られたなど、交易の大きな柱となっていたようだ。茨城県つくば市に、蚕の神様を奉る蚕影(こかげ)神社というのがあるそうで、この石標はおそらくそれと何か関係があるのだろう。
将監峠登山口からダートの林道に入る。高丸戸尾根への踏み跡を分け、20分ほどで七ツ石尾根の入口となる。ここは一度下ったことがある。最初から広葉樹のきれいな道で、両側に背丈近い笹が伸びている。奥多摩と違って、この山域はまだ笹枯れている所は少ないようだ。
ハルゼミがワンワンとけたたましく鳴き、あたりはもう初夏そのもの。快適に登っていくが、途中の直線状の急登はさすがにきつい。右手にカラマツ林を見る頃はようやく伸びやかな道に変わった。高丸戸尾根からの踏み跡を合わせ、周囲は草地も交えた広々とした尾根道となる。
タチツボスミレが咲き、この辺りの樹林帯はまだ新緑の様相である。標高を上げて山にかかる雲の下に入ってきたせいか、急に涼しくなり野鳥の声もピタッと止んだ。やがて奥秩主脈縦走路との合流点、牛王院平に着く。以前来たときにはなかった鹿柵が、周囲に張り巡らされていた。
牛王院平から少し道を外したところに、飛竜山などの眺めがいい草地があるので行ってみる。マルバダケブキが葉を出していた。開けた所で腰を下ろそうとしたら、地面には無数の蟻がうごめいていてギョッとする。たちまちのうちに何十匹の単位でズボンの裾を這い上がってきた。気持ち悪いのですぐにその場を離れる。
山の神土は十字路となっており、左は奥秩父縦走路、右は和名倉山方面。正面の稜線の道を登っていくと、シラビソなど針葉樹林下のしっとりとした雰囲気になる。何箇所かでガレ場があり、そのたびに迂回路を辿る。
西御殿岩には寄っていきたい。入口を見逃さないように注意していくと、「西御殿岩」と書かれた小さなプレートが置かれていた。
樹林帯をどんどん登っていくと、上部はガスに包まれているのが見えてきた。やっぱり今日はこういう天気の日か。もともと好天を期待していなかったのであまりがっかりはしないが、今まで青空だったのだからせめて山頂まで持ってほしいと思った。
ガスに煙る稜線を登っていくと、アズマシャクナゲが現れた。それもかなりまとまった群落である。ヤセ尾根から岩場を登って西御殿岩のピークに立つ。
晴れていれば高度感ある360度パノラマが楽しめる地だが、残念ながら周囲は真っ白。しかし風が通って涼しい。下界では連日連夜夏のようだったから、久しぶりにこのようなしのぎやすい場所に身を置くことができて、何だか不思議な気分である。
分岐まで戻って、さらに樹林の登山道を西へ行く。キバナノコマノツメ、ワチガイソウ、ミヤマカタバミとこの時期によく目にする高山植物を見る。トウゴクミツバツツジも黒木の中で鮮やかな色彩を放っている。
ずっと稜線下の南面についていた登山道も、やがて尾根上を辿るようになった。高度を上げていくとピークに出て、その数メートル右側に唐松尾山の山頂があった。実に16年ぶりの登頂である。
樹林の中の静かな山頂だが、アズマシャクナゲに囲まれており、やはりこの時期は花が楽しめていい。山頂の北方向に、緩やかに尾根筋が伸びていたので少し寄り道してみる。道の両側にはシャクナゲが満開でトンネルのようになっていた。
行き着いたところが露岩の展望地だが、ここも惜しいことにガスの中だった。晴れていれば甲武信岳方面がよく見えるという。岩陰にはイワカガミもたくさん咲いていた。露岩の先も北に踏み跡は続いており、このまま下っていくとどこかに下山できるのだろうか。ただ地形図を見ると途中で尾根の形状をなさなくなっているので、登山道がつけられているようには思えない。
山頂に戻るまで、シャクナゲを写真にたくさん収める。やはり奥秩父はシャクナゲの宝庫である。他の山域とは花の数が違う。
ガスが濃くなり、山深い雰囲気がさらに増す。唐松尾山はカラマツの原生林が多いとのことだが、自分が普段目にするカラマツはほとんどか人工林であり、天然のものといったら山梨県の櫛形山で見たくらいなので、どれがカラマツの木なのかはっきりしない。おそらく黒光りした大木がそれなのであろう。
鹿が斜面を駆け下りていった。奥秩父でも鹿を見るのはもう当たり前のようになってきている。そう言えばこのあたりになると、さっきまであった鹿柵が全く見られない。
岩場の下りに差し掛かると、シャクナゲがぐんと増え、思わず歩みが止まってしまう。岩場はところどころで眺めが開け、この時間になって再び雲間から青空が覗くようになった。緑の山稜の先に見えるゆったりとした峰は国師ヶ岳か。気温も急上昇してきた。
黒槐(えんじゅ)山はこの付近の山稜を総じて呼ぶ名前のようだ。その中での最高点、2044mの黒槐ノ頭を通過。このあたりもシャクナゲがすごい。その先の展望が良い草原で小休憩する。2000mを越えた地にも容赦なく照りつける太陽はもう夏のそれである。
2024mのピークを南から巻き気味に進むと登山道は下り基調となり、明るい広葉樹林の道に変わってくる。濃い紫色のトウゴクミツバツツジが多く見られるようになり、何となく、笠取山に近づいてきたと感じる。
今日は、笠取山には寄らないつもりでいたが、水干の分岐に来たら、やっぱり三角点のある山頂だけは踏んでおこうと気が変わった。ここから15分もかからない。もうひと頑張りと登り返しに入る。
とたんに何人もの登山者を見るようになった。西御殿岩、唐松尾山ともに一人も出会うことがなく、笠取山だけが人気が突出している。
このあたりのシャクナゲも多いが、開花のピークは少しすぎたようである。三角点までのつもりが、結局笠取山西端の展望地まで来てしまった。晴れ上がった空に入道雲がもくもくと高度を上げている。果たしてこれが5月の空なのだろうか。
富士山は雲で隠されているが、甲武信岳や国師岳がきれいに見えた。
水干方面に下り、シラベ尾根から黒槐分岐まで緩やかな道を行く。今日はこのまま黒槐尾根を下らず、しばらく縦走路を歩いてから中休場尾根を下ることにしている。
縦走路では何度か沢を越えていく。水のほとりにサンリンソウが咲いていた。先週の会津の山のニリンソウと違い、こちらははっきりと葉に柄がついている。花はやや小ぶりで、ちゃんと3輪つけているのは見つけられなかった。
その先で、笹に花が咲いているのを見る。笹は60年に一度花が咲くと言われ、咲いた後は枯れてしまうらしい。少しずつ咲いては枯れる、の繰り返しなら景観的にもあまり変わりはないのだろうが、咲くときはどうも一斉に咲くようだ。要するに、数十年間笹に覆われていた山が、ある時期を境に笹がなくなってしまう、ということになる。
奥多摩の笹ももうだいぶ枯れてしまったが、ここ奥秩父もついに奥多摩と同じ運命をたどるのだろうか。
笹がなくなった山にはどんな変化が起こるのか想像がつかないが、簡単に考えるなら、保水力が弱くなり洪水が増えるということか。
「山火事注意」の看板のところで中休場尾根に入る。植林の中を急降下した後は、ジグザグの下りとなる。登山地図には載っていないが、あまり一般登山道と変わらない。尾根の名前からして、山仕事用の道なのだろうか。これと言って特徴のない道なのだが、中島川橋よりかなり三之瀬寄りに下山できるので、三之瀬からの周回コースなら黒槐尾根より若干早く下れそうだ。
林道に下り、あとは舗装された道を三之瀬に下りるのみ。一ノ瀬キャンプ場の駐車場に戻るも、自分の車の他には一台もなかった。
この地に車で来る登山者は、ほとんどが作場平橋または中島川橋から笠取山に登るのだろう。今日は、最後に笠取山まで欲張った結果かなりの長丁場となってしまったが、静かで充実した山旅となった。奥秩父の隠れた秀逸コースであろう。
高速は渋滞しているようなので、勝沼インターには戻らずに奥多摩側から一般道で帰ることにした。途中で丹波山のめこい湯で汗を流していく。
緑あふれる奥秩父・奥多摩の山並みから郊外の住宅街に景色が変わっていく頃、ようやく夕闇が迫ってきていた。