茨城県の南西部にある筑波山は古くからの信仰の山であり、山もなだらかで厳しさがなく、見るからに優美な山容をしている。昔から「西の富士山、東の筑波山」と美しい山の代表として富士山と名を連ねているのは、やはりこの山が万人の心に留まる名山である所以だろう。
今はロープウェイやケーブルカーが山頂近くまで敷設され、売店や遊歩道も整備されるなど、地元の人の憩いの場として、また一般観光客にも至れり尽くせりの人気の高い関東の山となっている。
筑波山には山頂南面を中心にかなり多くのブナが生育している。県は筑波山のブナ保全活動に力を入れており、20年前くらいから継続的に実地踏査やササ刈りなどの維持管理を行なっている。筑波山には現在標高550m付近から870mの山頂まで、7000本以上のブナが確認されている。神社林としてスギ、モミ、カシなどともに何百年も保護されてきた地理的、気候的にも典型的な太平洋型の針広混合林である。
今回、その筑波山をブナ100名山とするにあたり、以下の特色に注目した。
- 信仰の山としての保護林であったこと
- 太平洋側のブナ林としては標高が比較的低い
- 山頂付近に集中している
- 県による保全活動が行われている
スギやアカガシの巨木を抜けて御幸ヶ原へ
ソメイヨシノが満開の筑波山神社から登り始める。ブナと出会えるのは、標高200m台の登山口からはかなり歩くことになる。県作成のブナ分布図では550mくらいからあるようになっているが、あくまで登山道沿いの木々を観察しながらとなる。
女体山付近の稜線には立派なブナが登山者を見守る |
保護林で伐採が禁じられていた筑波山南面は、まさにありとあらゆる樹木のオンパレードである。それも巨木がすごい。目を見張るのはやはりモミやスギなのだが、ほかにアカガシの巨木が存在感たっぷりで、これには圧倒された。意識してアカガシを見たのは初めてだったが、鱗状の剥がれやすい褐色の樹皮は一度見たらもう見間違うことはないだろう。
左側に沿っていたケーブルカーの軌道を乗っ越し、杉の大木を見たあたりからあたりは広葉樹の森に変わってくる。頭上が明るくなると道脇にカタクリが見られるようになる。ブナが現れたのはもう、御幸ヶ原に登り上がる手前だった。このルートで登る場合、まとまったブナを見られるのはかなり高度を上げてからだった。
御幸ヶ原はまだ時間が早いせいか行き交う人は少なく、ケーブルカーも動いていない。静寂な広場を後にし、男体山方面に向かう。山頂よりも、自然探究路の周回コースを取るのが今日のメインである。登山道で筑波山のブナを見るのはこのあたりが一番良さそうだ。
カタクリのたくさん咲く道を歩いて行くと、確かにブナがたくさん林立していた。ほかの樹種も多いが、男体山の山頂部は一応ブナが優占種となっている。前回の高尾山のように、思い出したように現れるのではなく、「ブナ林」といってもよさそうだ。芽吹きはまだであり、樹高があるので冬芽もあまり見えない。巨樹というほどのものはなく、太いので60~70cm前後だ。
ここのブナは2万年前の最終氷期の生き残り(レリックト)ということなので、今までも数十サイクルくらいの世代更新は繰り返されてきたと思われる。成木の近くに稚樹(若い木)があるか探してみる。ブナと思われる直径10cm程度のものが数本認められたが多くはない。林床には腰ほどのササが伸びており、それが実生の成長を阻害する要因の一つになっていると思われる。県のブナ林保全活動にはササ刈りのことも書かれていたが、御幸ヶ原から女体山にかけての遊歩道部分に注力しているようである。むしろこの男体山付近のササ刈りが望まれる。
もっとも、昨年のブナの結実度は各地で最悪であったようで、ほとんどの調査地点で凶作もしくは無結実だった。ここのササが刈り取られていても、今年はブナの赤ちゃんを見ることは無理だったろう。これはおそらく、今年の日本のほとんどの山で同じと思われる。
筑波山と高尾山のWI(暖かさの指数)比較 (2016年) |
観測地
| 筑波山 (標高868m)?? |
高尾山ブナ生育地 (標高450m) |
観測内容 |
月平均気温
(山頂測候所 地上1.5m) |
摂氏5度を超える値 |
月平均気温
(山麓) |
標高差による気温補正 * |
摂氏5度を超える値 |
1月 |
0.55 |
0.00 |
4.1 |
2.1 |
0.00 |
2月 |
2.20 |
0.00 |
5.4 |
3.4 |
0.00 |
3月 |
3.58 |
0.00 |
8.9 |
6.9 |
1.90 |
4月 |
9.39 |
4.39 |
14.4 |
12.4 |
7.40 |
5月 |
14.07 |
9.07 |
19.5 |
17.5 |
12.50 |
6月 |
16.33 |
11.33 |
21.6 |
19.6 |
14.60 |
7月 |
19.18 |
14.18 |
24.8 |
22.8 |
17.80 |
8月 |
20.70 |
15.70 |
26.3 |
24.3 |
19.30 |
9月 |
18.57 |
13.57 |
23.6 |
21.6 |
16.60 |
10月 |
12.98 |
7.98 |
17.5 |
15.5 |
10.50 |
11月 |
6.45 |
1.45 |
10.2 |
8.2 |
3.20 |
12月 |
3.82 |
0.00 |
6.7 |
4.7 |
0.00 |
WI |
77.66 |
103.80 |
|
(*)高尾山山頂には測候所がないため、麓の八王子市のアメダス気温値から標高差を加味して-2℃補正して気温を算出した
ブナ生育可能域は暖かさの指数が45~85の範囲と言われている。また表記はいずれも摂氏(℃)
|
筑波山をブナ100として上げた第3のポイントは、「山頂近くにブナ林がある」である。ブナ更新がおそらく可能であった冷涼・湿潤だった2万年前の気候に比べいくぶん温暖化の進んだ現在、筑波山はブナの世代更新が行われる気象条件が満たされているのだろうか。
前回の高尾山でも用いた樹林生育の条件を気温推移で測る「暖かさの指数」(WI)をここ筑波山でも適用してみる(WIについては高尾山の項を参照)。筑波山は幸い、男体山山頂付近に測候所があって毎日の気温、湿度、日射量や風速が計測されており、日々のデータがネットで公開されている。一般にWIが85がその地域はブナの生育の下限である。それより大きな数値なら生育には厳しい。
計算してみたところ、筑波山山頂のWIは77.6という数値が出た。ちなみに高尾山は100を超えており、ブナの天然更新どころか植苗の生長も難しそうな結果だった。WIだけで判断すれば、筑波山山頂のブナは世代更新も含めて安定度がある。現存する生木も見たところ立ち枯れもなく、寿命の近づいていそうな老木もあまりなかった。台風や地震など大きな撹乱事象がなければ、しばらくは成育に問題はないだろう。優先すべき対策は、芽生えのブナが十分に光を受けられるように、ササ刈りを継続することだと感じた。
一般に、稚樹の生育を阻害する要因には菌害、昆虫・動物の食害、台風などの気象災害、光不足とさまざまなリスクが存在する。降水量の減少(いわゆる砂漠化)も喫緊の課題である。さらに山火事などの人的な要因も絡んでくるため、本当にブナが安定して更新されるかは神のみぞ知る。しかし、わかっている範囲でひとつでもリスクを減らしていくことが何にしても大切なことである。
柵に囲われた御幸ヶ原付近のブナ古木。傍らには、植樹かもしれないが
稚樹らしきものが伸びている |
さらに、このままさらに温暖化が進んで高温と乾燥化が続いた場合はどうなるのだろうか。先のWI値で言えば、夏期の筑波山山頂の気温が2度上がると85を越える。仮に筑波山の標高がもっと高ければ、もう少し条件のいい高標高の場所へ生育域を移動して行くことも可能だが、ここはすでに山頂なので無理である。気象変動のいかんによっては筑波山のブナの天然更新に影響が及ぶ可能性がある。
例えば奥多摩の雲取山などは、現在の標高1500m付近のブナ帯は今後の気象変動によって、2000mの山頂部近くへ、長い時間をかけて植生を移していく余地を残している。数100年後の雲取山は、石尾根のカラマツ林や山頂北面のシラビソ林がブナ林に取って代わっているかもしれない。一方、筑波山のブナには逃げ場がないのだ。
登山者の配慮と遊歩道の保護を
自然探究路は途中で崖崩れがあったため、山頂経由の迂回路ができていた。ブナは次々と出てくる。2週間後には芽吹くだろう。
自然探求路の北面に回ると雰囲気は明るくなり、展望も開ける。カタクリがさらに増え、エンレイソウも見られた。樹林が南面ほど密でなく、北面は過去に伐採が入ったようにも見える。お化けのような萌芽枝の樹木はイヌブナだろうか。
お昼近くになり、御幸ヶ原は家族連れが中心の大賑わいの地となっていた。女体山までの広い遊歩道はカタクリの鑑賞路になっており、ロープウェイやケーブルで上がってきた大勢の人が歩く。
このあたりはブナも多く、男体山付近よりこちらの方が堂々とした枝ぶりの老木が目立つ。一部はブナ回りのササが刈り取られており、カタクリが多く咲いている。また、柵で囲われているところにはブナの細い幼樹が何本かあった。しかし自然に芽吹いたものなのか、植樹したものかはわからない。
茨城県の「ブナ林保全指針」資料には『自然公園の保護指定地域であることに鑑み,大部分の場所は自然の遷移に委ねる』という基本的な考え方を述べている一方で、『自然の回復力が期待できない区域では,必要最小限の復元対策も』としてブナ苗植栽作業を排除していない。太平洋側の山のブナ林再生を自然のままに任せるのは、やはり現実性は低いと言えよう。
筑波山山頂稜線付近のブナ分布図(2008~2010年、茨城県作成)
緑・オレンジが健全な木、赤・青点が衰退度の大きなブナ |
御幸ヶ原付近はカタクリ自生地があることもあってササ刈りは積極的に行われていた。ササが刈られ日当たりがよくなればブナ実生の成育する可能性が高くなる。しかし、柵のないブナの根元は格好の休憩地になっており、多くの人が腰を下ろしていた。
雌雄同体のブナと言えども、自家受粉はできるなら避けたいだろうから近くの木に受粉先を求めることになる。しかし御幸ヶ原のブナ林はそれほど密集していないので、これで受粉先が得られるのだろうか、自分にはよくわからない。
御幸ヶ原でブナを更新させるためには、カタクリ自生地も含めた広範囲の柵設置により、人や動物の入り込みを防止することが必要となろう。また遊歩道の北側には比較的巨木のブナが存在しており、ここもしっかりした保全対策が望まれる。
茶店を過ぎて女体山への登り口に、姿形・スケールとも一番のブナがあった。直径1m近いものもある。さらに急な岩場下りを経て、弁慶の戻り場手前までの標高750m付近は立派なブナが林立して見応えがあった。
しかしこうして見ると、筑波山の登山道から見ることのできたブナは、御幸ヶ原北面のものを除けば目を見張るほどの巨樹はなく、平均すれば直径60~70cmくらいの木が揃っていた感じがする。もしかしたら自然探究路の雑木の森は、過去に伐採あるいは自然擾乱による裸地化を経験していたのかもしれない。筑波山神社からのスギ、モミ、カシ、シイなどの針葉樹・照葉樹の巨木が立ち並ぶ登路は疑いのない原生林で、この山の最大の見所である。登山口近くにあったスダジイ存在感もすごいものだった。
ここにいくばくかのブナが見られればよかったのだが、他の樹種の勢力が強すぎる上、急峻な尾根は穏やかな地形を好むブナにとてはやや暮らしにくい環境なのであろう。
もちろん登山道を外れたところに目を見張るようなブナ巨樹があるのかもしれない。なにしろ2万年の歴史がある山だから。
芽吹いて開花の始まったブナ林も見てみたいものだが、何年かして男体山のブナ林稚樹がどう様子を変えているか、確認しにきてみたい。とにかく稚樹が順調に成長していることを祈るものである。
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2018年3月31日(土) 探索
ルート:筑波山神社-御幸ヶ原-自然探求路(男体山)-女体山-弁慶七戻岩-筑波山神社
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