夜は星空だったが、翌朝は少し雲がかかった。
普通ならテントをそのままにして軽身で出発するのだが、今日はテントを撤収してから行く。朝8時にヘリコプターが小屋前に下りてくるというので、早発ちする場合はテントを撤収してからにしてほしい、と小屋の人に言われていた。撤収作業のため、朝4時前に起きざるを得なかった。
ちなみに行者小屋には専用のヘリポートがないので、小屋前の休憩ベンチを全部片づけてからそこにヘリを下ろすらしい。
赤岳山頂から横岳を望む [拡大 ]
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撤収したテントをザックにしまい、小屋横のザック置き場においてから出発する。
まずは文三郎道を登っていく。阿弥陀岳は青空の下、赤岳・横岳は雲の下。背後の見通しがきくところまで登り、振り返ると遠く蓼科山が雲の帽子をすっぽりとかぶっていた。針葉樹林がついえて低灌木からハイマツの斜面に出る。青空の阿弥陀岳のほうに方向転換しようかとも思ったが、やはり赤岳に登ろう。
赤岳と中岳都の鞍部に着く。反対側の眺めが広がる。権現岳や南アルプスも頂上部だけ雲を被っていた。ここからは岩がちの道となる。前回は自分が落とした石が足の甲に当たり、あとになって腫れてきてつらい思いをした。今日はそんなことがないように。
砂礫の地にコマクサが咲いていた。けっこうな数。文三郎道でこれほどコマクサが見られるとは知らなかった。チシマギキョウ、タカネツメクサ、ミヤマダイコンソウなど、八ヶ岳ではおなじみの姿だ。
険しい岩場の登りが続く。注意深く歩いているので、石を蹴ったり踏み外したりすることもない。転んだりつまづいたりしないように、慎重に歩くからスピードも遅くなる。
筋力のある若い時と違って、安全に歩くためには歩行スピードの低下という代償を払うことになる。それはそれでしようがないし、それで大事なく歩けるなら不満はない。
鉄梯子に手をかけ、上空を見上げるたびに、青空の面積が増えてきているのがわかる。大きかった雲は甲府側にどんどんシフトしていってる。権現岳や甲斐駒にまとわりついていた雲がなくなり、気がついたら富士山の大きな姿があった。
2つの鉄梯子を登ると、小屋が見えた。赤岳山頂に到着。今年も登ってこれた。雲取、谷川岳と並んで、赤岳も自分にとっての健康のバロメータだ。ここに来れれば、今年もどうにか大きな病気もなく安泰でいられるという自信がわく。
頂上山荘は確かに営業していた。しかし静かで人があまりいない感じ。ここが混むことはあまりないと思われる。八ヶ岳の穴場の山小屋である。
山頂と、小屋前の展望地とで1時間ほどいた。最近はなぜか、山頂にとどまるのが10分とか15分とか、長くて30分もいないことが多い。下山の時間を気にしてしまうのか、何か落ち着かない気分であることが多い。赤岳なら1時間いられる。
何しろこの高度感は、他の山では味わえない。日本の高山の上位50を見るとほとんどが北・中央・南アルプスで占められ、アルプス以外は富士山、御嶽山、そしてこの八ヶ岳(赤岳)のみとなる。
アプローチに時間のかかるアルプス山域に比べ、日帰りまたは1泊でこんな高い山に登れるのは本当に貴重な存在だ。
雲がどんどん取れて、北アルプス、中央アルプス、奥秩父や浅間山がよく見える。美ヶ原や諏訪湖を取り囲む平地も。八ヶ岳連峰は蓼科山まですっかり、青空の下になっていた。
天望荘まで岩尾根を下る。登ってくる人も多いので、道を譲ったり、先に行かせてもらったりを繰り返す。
振り返ると壁のように急峻なところを下っているのがわかる。キレットルートや中岳分岐からの登りに比べて比較的優しい部分と思っていたが、こんなに急な斜面だったか。
赤岳天望荘を過ぎて地蔵の頭へ。ここで下山も考えたが、やはり横岳方面の花も見たいので、もう少し足を伸ばす。そそり立つ岩峰群に向かって、少し下ってからその岩場にとりつく。
梯子、岩壁のトラバース、急な登りなど難所が続く。もう何度も歩いているが、年を追うごとに緊張感が高まっている。イブキジャコウソウ、コバノコゴメグサ、オンタデ、タカネニガナと、赤岳周辺では見られなかった花に出会えた。湿った岩場にはウサギギク、ムシトリスミレが見られた。が、花数は少ない。
ウルップソウ、ハクサンイチゲはもう半月前でないと見るのは難しい。オヤマノエンドウ、チョウノスケソウも見られたが、ロープ柵の向こう側で花の数もわずかだ。
八ヶ岳が花で一番彩られるのはやはり、6月下旬から7月上旬である。ただ、花期がやや過ぎているということを割り引いても、全体的に花の量は少なくなっているように思う。
鉾岳を長野側から巻くところではハクサンイチゲがほぼ終わり、ミヤマオダマキもピーク過ぎといった感じ。ここにはいつも同じ花が同じ場所に咲くので、年ごとの花付きが比べられる。
急な岩場を2度登り返し、砂礫の穏やかな稜線に出る。杣添尾根を合わせると三叉峰。横岳のピークが見えるがまだ遠い。しかし天気も展望もいいので、今日は行こう。
岩場の登降が多い南八ヶ岳の稜線で、のんびり歩けるのはここから先である。緩やかに下って登って、小さな梯子を上って横岳山頂に着く。
大同心、小同心を間近に見下ろす、胸のすくような眺望である。東側の高原レタス畑がよく見えるが、高地でも下界は日差しが強く、暑そうである。
さあここまで来たら硫黄岳経由も考えられるが、やはり往復で戻ることにする。地蔵の頭まで来れば、ずいぶんと岩場にも慣れる。以前は北アルプスの足慣らしの目的で八ヶ岳に来たこともよくあった。今回はたぶん、八ヶ岳が本番になりそうだ。
地蔵の頭で小休憩していると、山梨県警のヘリが飛んできて、天望荘の上で人を下ろしていた。急病人でもいたのだろうか。今日はあちこちでヘリが飛んでいるのを見た。
地蔵尾根を下る。文三郎道と同じような急斜面だが、こちらのほうが斜面の崩壊が進んでおり、階段もあちこちで作り直されている。親子連れが登ってくるが、急傾斜を前に顔がこわばっており、見てて気の毒に思う。もちろん自分が確実に下れることに集中しなければ。
梯子の真下で休憩している若い女性がいた。上からの落石があるかもしれないので、少しずれたところに座った方がいいと思う。近くまで来たらそう伝えようとも思ったが、おせっかいと思われるのも嫌なので、そのまま通り過ぎた。
そういえば今回、ヘルメットをかぶっている登山者が実に多かった。昔は八ヶ岳でヘルメットを持っている人がいたら、それは岩登りの人だったと思う。今は一般の登山者にもヘルメットは普及しつつある。
アルプスも今は、剣とか穂高でなくてもおそらく3分の1あるいは半分近くの人がヘルメット姿だと思う。登山ガイドなどでヘルメットが推奨されていることが多いので、その影響だろう。
行者小屋に着く。8時に来ると言っていたヘリはまだ来ていなかった。そうしたら、今下りてくるという。
10メートルくらい離れた小屋の脇のテラスでヘリが下りてくるのを眺めていたら、爆風がテラスを襲ってきた。ものすごい風で、帽子などが飛ばされ、体が砂だらけになってしまった。
ヘリが下りるのをこんな近くで見るのは初めてだが、これではたしかに、周辺にテントが残っていたら間違いなく飛ばされる。ヘリは荷物を吊り下げて、すぐに行ってしまった。
荷物を整理し、下山とする。行きと同じ南沢コースでもよかったのだが、今回は北沢を行くことにする。中山乗越から赤岳鉱泉を経由していくので、時間はすこしよけいにかかる半面、後半は林道なので楽になる。かなり疲労もたまっていたので、早めに登山道から脱したくもあった。
今回最後の登りで中山乗越、さらにけっこう距離のある下りで赤岳鉱泉に着く。標高は行者小屋より100m低い。
ここからは沢に沿った、穏やかな下りとなる。南沢コースに比べると若干歩きやすい。沢は鉱泉の成分が含まれているのか、少々気味悪いくらい赤味を帯びている。その沢も、本流の太い沢に合流するたびに赤色が薄まっていく。
北沢沿いの登山道は日当たりがよいせいか、いろいろな花が咲いていた。丸々太ったホタルブクロ、ヤマオダマキ、オトギリソウ、クルマユリ。テガタチドリが見られたのには驚いた。
未舗装の林道に出る。緩やかな下りが続く。ショートカットする道が時々現れるが、土の道はもういいので林道をそのまま行く。
林道は30分ほどで美濃戸山荘に着いた。牛乳を飲んで一休み、さああとひと頑張りだがさすがに疲れた。時間ももう3時で、歩く登山者も減ってきた。
両日とも天気に恵まれたのが幸い。しかしさっきまで標高2800mの稜線にいた身には、1500mまで下りてくると空気が暑い。汗をかきながら最後の登り返しを経て、美濃戸口にゴールする。
八ヶ岳山荘で駐車料金を支払うついでに入浴していく。下界の高速道は灼熱の地だが、平日のため交通量は少なく、気分よく走れる。行きでは見られなかった八ヶ岳、南アルプス、富士山を横目で見ながら帰途につく。