以前、燧ヶ岳登山で沼山峠~御池間のシャトルバスに乗ったとき、ブナの原生林が見下ろせるところで運転手さんがバスを停めて説明してくれた。水芭蕉やニッコウキスゲなど、湿原や高山植物が魅力の尾瀬だが、豊かなブナ林のあることも知られている。
バスの車窓から広がるブナの原生林、「ブナ平」を歩くには御池登山口のさらに下、七入から入山し御池古道を登ることになる。尾瀬の山歩きは福島県側からの場合、たいていは御池登山口が出発点になるのだが、御池古道はここがゴールになる。山行記録はあまり見かけないが、その分静かな尾瀬を歩けそうである。
元湯山荘から見晴まで、草紅葉の湿原を行く
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なお、ブナ平のほかに新潟県側の只見川沿いのブナ林も見ものだというので、この二つをつなげて歩いてみたかった。しかし只見川側の登山ルートである小沢(こぞう)平からの道は現在川に橋がかかっておらず、何箇所かで膝下程度の渡渉が必要らしい。2016年に渋沢温泉小屋が営業休止し、橋を含めた登山道を維持管理する人がいなくなったのが原因のようだ。
少しくらいなら濡れることも厭わないのだが、今後の登山道の整備を願って今回は小沢平ルートは諦めることにした。
道の駅で前泊し、翌朝国道を走り尾瀬へ向かう。木賊温泉入口、三岩岳や会津駒の登山口を過ぎ、御池への上り坂になる手前に七入のバス停がある。向かいの駐車場は100台は裕に停められそうだ。
七入の標高は1000mを少し超えたくらい。周囲の木々はまだ緑だが、高いところはそろそろ色が変わり始めている。
御池古道はバス停側にあり、「尾瀬自然観察の森遊歩道」の標識に従って入山する。100mほどの伐採地を過ぎるともう深い森である。登山道は急なところもなく、昔の峠道の風情だ。ブナに囲まれるような道を緩く上っていく。
木材で組まれた「モーカケの滝展望台」に着く。モーカケの滝は御池古道にある観光ポイントで、国道から遊歩道が伸びている。尾瀬にはこの他にも三条の滝、渋沢の滝、抱返の滝など個性的な名瀑が多い。
モーカケの滝は水の流れる様が、奈良時代の女性が裳(も)という服を着たときの後姿に似ていると言うのが名前の謂れだそうだ。ただ、滝の見られる展望台からは意外に距離があり、この季節は葉が茂っているので滝の全貌を見ることは難しかった。
上部に行くとダケカンバが混ざり始め、また地面にはたくさんのどんぐりが落ちていた。ブナの森はなおも続き、白くスラッとしたものも多い。オオカメノキやナナカマドは赤い実をつけ、カエデやヤマウルシが赤々と紅葉し始めている。ツノハシバミという、角の生えたような実をつけた木もあった。
樹林が切れ、小さな湿原を横断するようなところもあった。スモウトリ田代という比較的広い湿原に出ると御池古道も終わりが近づく。御池ロッジの裏手に出て、建物をくぐると尾瀬御池の広場に到着した。
時間をかけてブナ平を歩いてきたが、これだけではさすがに物足りない。せっかく尾瀬に来たのでやはり湿原を見ていくことにした。見晴から尾瀬沼まで行き、大江湿原を通って沼山峠に戻るという、燧ヶ岳の下を反時計回りに一周するルートだ。
少々時間はかかるが、前半は湿原とブナ林の裏燧林道を歩き、後半は草紅葉の広大な高層湿原を横断するという充実した行程である。時計を見たらもう10時だ。ベンチでおにぎりを1個たいらげ、早々に出発する。
御池登山口から木道の道が続く。濡れた木道は滑りやすいが、その木道に鉄製の網をかぶせ滑り止めとしているところがあった。木道全部をこのようにすれば滑って転倒する事故は大きく減るだろうが、設置費用が膨大になりそうだ。
樹木はシラビソとダケカンバが主で、ブナ、ミズナラ、ハウチワカエデやミネカエデが混ざる。オオシラビソも見られる。
やがて周りが大きく開け、黄色から茶色に彩られた湿原が目の前に展開する。左側には燧ヶ岳、右方には平ヶ岳が望めた。湿原はこの後も時々現れる。ここは水芭蕉の季節に歩いたことがあるが、秋の風情もなかなかのものである。歩く人は多いが、夏の盛りとは違った透明感のある穏やかな雰囲気が漂っている。
道が樹林に入ると木道も途切れ途切れになる。S字に曲がった大木はダケカンバだった。幾たびか沢筋を越えながら、少しずつ高度を上げていく。紅葉した木も目立つようになった。
裏燧橋を渡り、ブナの多い道を行く。裏燧林道は林道と言ってもれっきとした登山道である。今の時間だと、尾瀬ヶ原方面からこの道を通って御池に下山する人が多い。すれ違う時「この先ずっとこんな感じでしょうか?」と聞かれた。草紅葉の湿原歩きをあてに尾瀬に来た人は、やはり樹林の道が退屈に映るのかもしれない。
三条の滝への分岐に出る。この道でも見晴まで行けるので迷ったが、かなり長い距離を歩いており時間的に余裕が少なかったため、前回と同じく距離の短い段吉新道の方を下ることにした。滝経由の道は、小沢平からの登山道と一緒に歩きたい。
元湯山荘前に下りてきた。休憩所で一休みする。管理人さんに小沢平からの道のことを聞いたら、やはり橋はなくて草刈りも一度しか行なっていないとのことだ。自分はまだ歩いたことはないが、樹林下の地味そうな登山道で、渋沢温泉小屋があってこそ歩く人もそこそこいたのだろう。しかしここを歩くと尾瀬ヶ原や燧、至仏山登頂を目的としない「もうひとつの尾瀬」を実感できるはずである。
小沢平からの登山道は魚沼側から尾瀬に登る貴重なルートなので、是非とも魚沼市には予算を獲得して、登山道の整備と橋の復活を遂げてもらいたい。
元湯山荘を後にすると、直線状に伸びる木道が始まり、いよいよ尾瀬の広大な湿原に入った。花はウメバチソウ、オヤマリンドウやヤマトリカブトくらいだが、薄茶色に染まった草紅葉が日に輝いてキラキラしている。燧ヶ岳の山頂部も見えている。
東電小屋への道を見送り、キャンプ場や山小屋の立ち並ぶ見晴(下田代十字路)に着く。ここは尾瀬のど真ん中、東西南北から登山道が合わさり、まさに交差点である。
時間的には少し余裕が出てきたと思い、案内板の地図を確認するとこの先、尾瀬沼までの行程が予想より長いコースタイム設定になっていることがわかった。見晴から沼尻まで、自分の計画では1時間30分なのだが、案内板だと2時間20分になっている。2時間もかかってしまうと沼山峠からの帰りの最終バスに間に合わないことになる。
地図によってコースタイムが多少違っているのはよくあることだが、個人差を考慮しても1時間も違うというのは普通ではない。この間は高低差はさほどなく、距離的にも2時間もかかるようには思えない。疑心暗鬼になりながら先に進むことにした。バスに間に合わなったら、沼山峠から沼田街道をヘッドランプで下ることにする。
燧ヶ岳の方向へ、見晴新道を進む。再びブナ林に入り、登り勾配になる。燧から下山してきたのだろう、靴が泥だらけになっている登山者が次々とやってくる。その燧ヶ岳への登山口を分け、緩々と登っていく。こちらにはぬかるみもなく、随所で木道となっているので歩みははかどる。
白砂峠の手前になると岩がゴロゴロするきつい登りが続いたがそれも短く、下りに転ずると再び湿原、その先で尾瀬沼の沼尻に着いた。ここにもきれいな休憩所があり、木製のテラスから尾瀬沼が広く見渡せる。尾瀬沼は燧ヶ岳に登ったとき山頂から見下ろしたが、実際近くを歩いたのはこれが初めてだ。ただここ沼尻から湖面までは少し距離がある。沼の反対側には燧ヶ岳のナデッ窪の斜面が迫っていた。
見晴から沼尻まで、結局1時間10分で歩いてこれた。時間的にずいぶん余裕ができたので、尾瀬沼を見ながらのんびりと湿原歩きができる。やがて樹林帯に入り、前回使った燧ヶ岳への登り口が合わさる。ここからはもう歩いたことのある道で、さらに余裕が出た。
大江湿原に下り立ち、尾瀬沼ビジターセンターへの道を分ける(沼山峠分岐)。ここからゴールの沼山峠まではずっと木道となる。今日のルートは全部で25kmと、自分としては1日で歩く最長の距離となる。それも9時間とか10時間もかかることはなく、最終的にはおそらく8時間を少し超えるくらいに収まりそうだ。
これだけ長い距離を歩けるのも、全行程のかなりの部分が木道だったからだだろう。土の上をまともに歩いたのは最初の御池古道くらいである。
木道は雨の日や雨後の滑りやすいときは足運びが慎重にならざるを得ず時間がかかる。今日はほとんどの行程で木道は乾いていたのも足がはかどった原因になりそうだ。17時10分沼山峠発のバスは余裕で間に合いそうである。
やや傾き始めた太陽を背に、黄金色に輝く大江湿原の木道を進む。オヤマリンドウがおそらく最後に見る花かもしれない。同じ方向に行く登山者も多く、列をなして歩く。
樹林帯の登りとなる。今日のルートは最後の最後にまともな登りの道が待っていた。ここへきて標高差130mの登り返しは心理的にきついかと思ったが、歩きやすい木道に助けられた。樹林が育ち眺めの悪くなった沼山峠展望台を過ぎ、さらに少し登った笹原のピークが標高約1780mの本日の最高点となる。
そこからは一転、ひたすら下る。木の間から休憩所の屋根が見えてきた。
16時20分、沼山峠に到着。思いがけず早い時間でのゴールとなった。これならここからさらに沼田街道を歩いて下っても、日没までに七入に着けるかもしれないと思ったが、さすがに今日はここで歩きを終了する。
16時30分発のシャトルバスがあったのでそれに乗って戻る。今日もバスはブナ平の見えるところで停まってくれた。樹海のようだった。
御池で下車する。17時10分発のバスに比べてこちらはここで会津バスへの乗り換えが必要になり、料金が余計にかかってしまった。次の七入バス停で下り車まで戻ってこれた。長い尾瀬一周の山行だったが、ブナも草紅葉もたくさん見られ、満足のいく1日となった。
山はこれから数週間で彩りを変え錦繍の秋へと、1年で最後の衣替えの季節をを迎えることとなる。