西穂独標。左背後はピラミッドピーク
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初めて、冬の北アルプスに登った。
山岳紀行作家の石井光造氏は著書の中で、四季のうち山が一番山らしい姿を見せるのは冬だと書いている。芽吹きや新緑の春、草原と高山植物の夏、紅葉と静寂の秋の山はそれぞれ魅力ではあるけれども、雪に覆われた山こそが、山が近づきがたいもの、自然の厳しさと人間の小ささを感じさせてくれると。
生命の息吹の源泉である自然は本来は厳しいものという氏の考え方が現れている。
自分はこの文章を読んで、最初はよくわからなかった。山の「三種の神器」は新緑・花・紅葉であり、鳥のさえずりを聞きながら、湧き立つ夏雲を見上げ、落ち葉を鳴らして山道を歩くことが、自分にとっての山に対する「価値」である。それは基本的に今も変わりはない。
けれど時間が経つにつれて、冬山こそ山の姿だという言葉の真意が、少しだがわかってきた。
それはやはり、冬山に登ってみればわかる。理屈のない美しさがある。冬が一番いいと言う人は多く、著名な山岳小説や写真も冬のものが多くを占めている。
雪山に登るスキルと時間があれば、足しげく通うかもしれない。けれどその条件部分がやはり問題で、体力が峠を越えて以来、ちゃんとした技術を身につける機会のなかった自分には、アルプスの冬山などは指をくわえて写真で見るしかない。
そんな中でも少しずつ場数を踏んで、ようやく今回、念願の地に足を踏み入れた。自分の歳と体力を考えれば、一人で行けるところではない。トムラウシや鳥海山にいっしょに登った友人と今回も登る。
目指す山は西穂独標。主峰の西穂高岳には及ばないが、冬山であれば今まで登った天狗岳(八ヶ岳)や谷川岳よりはランクは上だろう。
西穂にロープウェイを利用して登るルートは冬山の定番で、地形や登山道の状況から前爪付きアイゼン、ピッケルは必須となる。小屋へのアプローチにはストックを使用するほか、小屋のホームページにはワカンも持ってきたほうがいいと書かれている。天下の北アルプスに登るのだから当然だが、今回は冬山装備を全て持参である。
毎度のことながら、友人の運転で楽をさせてもらい、岐阜県・飛騨地方の新穂高温泉まで行く。ここに車でアプローチするのは時間もかかり大変かと思っていたが、冬の中央道は関越ほどの渋滞もなく、5時間もかからなかった。まあ自分が運転していないからあっけなかったのかもしれない。
ロープウェイの新穂高温泉駅にはすでに、運行開始時間待ちの列ができていた。登山者は意外と少なく、8割ほどが観光客である。あらかじめコンビニで買っておいた引換券を切符に替えるが、それに加えて荷物料金300円かかった。
30分以上並んでロープウェイに乗る。途中駅でさらに大型の二階建てゴンドラに乗り換える。この中継地点には日帰り用の温泉と足湯があった。
120人乗りの大きなロープウェイの窓からは焼岳、乗鞍岳、笠ヶ岳など北アルプスの名峰が次々と現れ、この先の期待が高まる。ロープウェイには東側に乗ったのだが、槍や穂高を見るのなら反対の西側の窓についたほうがいい。
西穂高口駅に到着。登山届けを出して外に出ると目の前には2メートルほどの雪の回廊ができており、もう北アルプスの雪山にどっぷり状態である。
アイゼンはせず、ダブルストックのみで出発する。半分が雪に埋まった小屋を見て、しばらくは傾斜のないオーソドックスな樹林帯歩きが続く。トレースはしっかりついており、ワカンの出番もなさそうだ。左後方が開け、笠ヶ岳が高くそびえる。
ほどなく前方の視界も効きはじめると西穂高岳の険しい稜線が目の前に広がった。独標はどれだろうか。少し右の丸いピークがそうか。
雪道をさらに歩き、ややアップダウンのある道に変わる。木には「冬季登山道」のプレートがかかっており、夏道はやや下側についているようだ。次第にはっきりした登りになってきたので、平坦になったところでアイゼンをつけることにした。日が高くなってそれほど締まった雪ではなくなっているが、アイゼンをつけるとやはり歩きやすい。
前方に木の切れ間から、意外に早く西穂山荘が見えてきた。しかしそこからが長く、急坂となる。
森林限界に出て、登るほどに背後の眺めが広がる。西穂山荘に到着する。今日のうちに独標を往復する予定で、受付を済ませて部屋に不要物を置いておくことにする。
山荘は2階建てで半分くらいが雪に埋まっている。今日の宿泊者は100名程度で、定員の半分以下と余裕はある。夏のシーズンは400人くらい入ることもあるらしい。
食事をしてから出発。山荘周辺は風も弱く、すでに20張くらいあったテントも過ごしやすそうだ。だが小屋前の台地に上がって少し登ると、強い西風が吹き始めた。青空いっぱいて雪の降る心配はなさそうだが、この風がそれ以降の行程での厄介ものとなる。
稜線は幅広く、しかも見渡す限りの大展望である。焼岳や乗鞍岳、霞沢岳、そして北方向には笠ヶ岳から続く真っ白な峰々。まさに絶景だ。丸山には20分ほどで着く。風は時に激しく吹きすさび、地吹雪となって顔に当たり痛い。天気図からはそれほど強風が吹く様子でもなかったが、やはり山は違う。
稜線南側には雪庇や風紋が発達している。独標からピラミッドピークへ続くスロープが目の前となる。それぞれのピークに人が立っているのが見える。笠ヶ岳から抜戸岳にかけての白い稜線のさらに奥には、双六岳から三俣蓮華岳まで見えている。
と、背後からバラバラとヘリコプターがやってきた。この西穂稜線の北斜面すぐ上でホバリングしている。何かを探しているよう。滑落遭難者がいるのだろう。こんな強風でもヘリはびくともしないようで、頼もしさを感じる。
眺めの良いところにテントが張られていた。宿泊ではなくおそらく、撮影の拠点としているのだろう。
穏やかな行程は終わり、突如として岩の出た険しい道と変わる。北斜面の狭い部分をトラバース気味に下るところは緊張する。同行者はここが大変だったと言うが、自分はここはそう難しさは感じずに鞍部に下り立つ。
独標ピークは眼前。岩場の厳しい登りだ。雪が薄く、足の置き場が悪いとアイゼンの歯がしっかり噛まないので滑落の危険がある。一歩一歩、確実に登る。クサリに捕まりながらピッケルを使っての急登。
サングラスがうっとおしいので外しての最後の登りをこなし、ついに西穂独標に立った。
独標からはこの先のさらに険しい岩尾根が目の前にある。ピラミッドピークから西穂高岳、さらにジャンダルム、奥穂高岳と続く。しかしその先、北穂や槍はここからは見えない。多くの人は独標から引き返すが、西穂高岳を目指す人もいて、ピラミッドピークの長い坂に人影が見える。
ともかくも、天下の北アルプス雪山をこんな近くで拝むことができ、感慨もひとしおである。しかし達成感は半ば。今しがたの岩場の急登を果たして自分は下れるのだろうか、その不安が意識の半分を占めている。
さっきのヘリがやってきて、一人がロープでこのすぐ先の稜線に下りてきた。大岩が邪魔して見えないが、怪我人がいるようだ。手当のために降りてきたのだろう。
しかし、こんな目の前でヘリによる救護の場面に出くわすとは。冬の北アルプスの、まさに生身の部分を見せつけられた感じだ。
数人が下っていくのを追うように、自分もいよいよ下山である。カメラはザックにしまった。
同行者に先行してもらう。彼はさほど苦にせずに難所を下りきり、視界から消えた。自分も同じように行くが、途中で体の旋回がうまくいかず、大汗をかく。腹ばいに下りなんとか鎖につかまる。足の置き場が見えず、アイゼンの噛みが不足する分、ピッケルで確実に雪を捉えるようにして慎重に下る。
10分近くの悪戦苦闘の上、ようやく危険箇所を通過した。しかしここは、鎖がなければ自分には下れない。さらに、ピッケルがこれほど役に立ったことはない。こういうふうに使うのか、と身をもって会得した。
独標からの下りは、来る前は上州武尊の剣ヶ峰を同等比較できそうなところとして考えていたが、レベルが全然違った。