父不見山(ててめーじやま、ててみえずやま)という名前はどうしてついたのだろう。どことなく郷愁を惹かれる響きである。
城峯山とともに埼玉と群馬の県境にある山で、東京周辺の山の中でも特になじみの薄い、神秘的な印象がある。
両県から登山道が通じており、秩父側の山麓には山野草の自生地もある。冬から早春へ季節が移り行く中、それらへの訪問も絡めて、城峯山と合わせての1泊山行を計画した。
小平の登山口
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長久保ノ頭から父不見山
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車を使わない登山のメリットは、山越え・峠越えのコースが採れることである。2つの山とも、かねてから興味のあった上州-秩父間の「県境越え」が出来る。今日は上州(群馬)側から父不見山に登り、秩父側の長久保に下りる道を行く。
高崎線の新町駅から日本中央バス。万場町の小平で下車し、バスの進行方向へ少し進む。赤い橋で神流川(かんながわ)を渡る。
国道に面する家並みは陽射しをいっぱいに浴び、いよいよ春近しの印象を受ける。
橋から右折して50mほどの所に指導標があり、すぐに山道に入る。急なところは少なく、落ち葉深い潤いに満ちた峠道である。二股になるところは右を行き、やがて樹林越しに西上州の山並みが遠望される。
いつのまにか万場の町が眼下となる。U字状にえぐられた山道を緩く登っていくと、簡易舗装の林道に行き当たる。車でならここまで登って来れそうだが、付近に駐車している車は見られない。車は小平登山口付近の駐車場に止めるケースが多いと聞く。
しばらく林道を辿る。正面に父不見山の三角形が見えてきた。と、反対の西側を見ると空が白くなってきている。粉を振り撒いた様な雲が頭上に差し掛かってきた。雪雲だ。さっきから地面に見られる残雪には、表面にポツポツと小さな穴が空いている。これはつい今しがたまで雨か雪が降っていた証拠だ。
坂丸峠に着くとついに雪が舞い降りてきた。強い降りではない。
杉林をぬって稜線に上がると、雑木林の向こうに上州側の眺めが広がる。頭上は雲で真っ白だが、北側は青空がまだ覗いている。そのうち雪も弱くなり、太陽が出てきた。背後に二子山の怪異な山容を遠望する。
長久保ノ頭(1066m)に登り着く頃は青空も復活。正面に父不見山、その向こうに城峯山の頂上展望台も見える。
父不見山は数年前に山火事に見舞われ、半分が禿げ山のようになってしまった。現在、南斜面は幼植林が一面に植えられていて、少し奇妙ないでたちである。
晴れて気持ちよい道を大きく下って、小さく登る。父不見山より長久保ノ頭のほうが高い。
西の空から、再び雪雲がやって来ている。父不見山頂上に着いた時は、またしても雪の風景となった。
稜線の上なので風が強く、ちょっとした吹雪模様である。樹林の生育していない南面の展望は素晴らしいが、遠い山々はガスっている。寒いので、写真を撮った後すぐに下る。
植林が施された南面の反対側は、主にカラマツ林となっているがこちらも疎林で、山火事の影響がまだ残っている。
数組の登山者とすれ違うが雪の舞っているせいもあろう、静かな雰囲気が漂う。展望の開けた中、それほどきつくない下りの道が続く。
鳥が羽を大きく広げたような、根張りのあるどっしりとした山体をしているのが歩いていてわかる。
祠と数本の木が立っている杉ノ峠もどこか寂れた雰囲気だ。秩父上吉田町と、万場町生利からの道が合わさるところだ。
ここもかつては秩父から万場から、県境越えをする人で賑わったのだ。昨年秋に登った清水峠(上越国境)も印象深かったが、この杉ノ峠に立って秩父の山や土地を見下ろすと、同じように何か新たな感慨が湧く気がする。
雪も止み、下に見えている車道に向かって高度を下げる。これから長久保の車道を歩き、カタクリ自生地に足を運ぶ。ただし今日はカタクリが目当てではなく節分草である。
梅や菜の花の咲く長久保集落を過ぎ、登山口から1時間半ほどで長久保入口バス停に着く。戻るように反対側の車道を5分ほど進むと倉尾支所バス停、指導標に従って自生地に至る。
このへんならどこでも見かけるような、目立たない民家の裏山だ。半時計回りに一周し、元の場所に戻る直前に節分草の群落があった。狭い場所だが、斜面に自然に咲いている感じでなかなか絵になる。しかし小さい白い花なので、写真に納めるのは難しい。
倉尾支所バス停の待合所
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バスで上吉田に出る。かおる鉱泉に今夜は泊まる。昨年秋に予約を申し込んだときは、満員でだめだった。宿の人に聞いたら、その頃は秩父事件を題材にした映画「草の乱」の撮影時期で、俳優さんが泊まっていたとのことだった。
俳優さんはこのような静かな山の宿でも、1人につき1部屋をあてがわれるそうである。今日の宿泊は自分1人だった。
鉱泉はかすかに硫黄の臭いがする(ただし硫黄泉ではない)、素朴なお湯。最近人気の、香りの強い温泉に慣れている人には少し物足らないかもしれない。食事も美味でゆったりと一晩を過ごした。
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